朝鮮戦争を経験した母と北朝鮮に拉致された父の話。

朝鮮戦争を経験した母」

※母の記憶を基に書いています。微妙に史実と違う点もあるかもしれません。

 

 

私の母は、1944年生まれで現在、76歳の母は朝鮮半島出身だ。

でも国籍は日本である。

帰化したわけではない。

母方の父が日本人なのだ。

母方の父は旧日本海軍の軍人で、朝鮮半島に移り住んで、

そこで朝鮮人の女性と結婚して私の母を作った。

 

そして、母方の父は死ぬまで韓国で生活をするのである。

 

私の母は国籍を選べたそうだが、日本にしたそうだ。

 

韓国で生活していたある日、1950年6月25日に

朝鮮戦争が勃発した。

 

その時の事を覚えている事だけでいいので母に聞いてみた。

 

何時頃かは不明とのことだったが、母がまだ避難をする前の話、

自分の家のそばに爆弾の破片が家に飛んで来た事があるそうだ。

 

母が、6歳ぐらいの時に弟を背負って、父母と南へ避難を始めた。
忠清南道忠清北道へ何ヶ月もかけて歩いて逃げた。

ja.wikipedia.org

ja.wikipedia.org

母は歩くたびに泣いていたそうだ。

 

一家は、ある田舎の大きい家について、そこで寝る事になった。
何日泊まったかは記憶はないらしいが、何日も寝泊りしたそうだ。

 

ある日、弟の首に大きなしこりができた。

しかし、周りに病院がない。

仕方なく、父が包丁でしこりを切った事もあったそうだ。

 

また、泊まった家の家主が金持ちだったらしく

「その子を下さい」と弟をくれと言われた事があったそうで、

「そんなことはできない」と断った事もあったそうだ。

 

そんな事があって、その家から出て別の街へ避難した。

そこは港町だった。

 

家を見つけて住む事になったが、板でできたような家だったらしい。

ソウルと釜山の真ん中くらいの街だったので比較的平和だったそうだ。

 

家から少し歩けばすぐ海が見える場所だったようで、

私の母はよく、海岸で貝を取ったりしていたそうだ。

 

韓国では当時7歳から学校に行く制度になっていたそうで、

私の母は学校へ行く事に。

家から学校まで山道を通りながら1時間掛けて通った。

 

そんな生活をしていたある日、突然、父が「釜山に行く」

と言ったそうだ。
船に乗って釜山に行った。
家族は釜山で生活を始めた。

 

私の母にはお姉さんがいるのだが、母曰く戦争の中どうやって

逃げたのか分からなかったそうだが、一緒に避難はしなかったようだが、

お姉さんは軍隊の慰問をやって歌を歌っていたと言うのを後で聞いたそうだ。

 

母は釜山でも学校へ通った。

戦時中だったので学校がテントだったりしたそうだ。

 

学校である女の子と仲良くなる母。

聞いたら日本の子だったそうだ。
なぜ日本人と分かったかと言うと本人から聞いたというのもあるが、
持ち物が韓国にはない、いい物ばかりだったのもあるそうだ。
その女の子は、絵が上手で日本の漫画のような絵を描いていたそうだ。

 

朝鮮戦争は韓国と北朝鮮の話で日本は関係ない。

関係あるとしても日本が国連軍や米軍の兵器生産や修理をしていた

くらいにしか考えていなかった人。

もうちょっと知っている人がいたとしても国連軍の要求で

日本の海上保安庁が派遣した掃海隊「日本特別掃海隊」くらいだろう。

 

朝鮮半島で日本人が朝鮮戦争を経験し、避難したり、生活している

所までは知らない人が多いのではないだろうか。

私も母に聞くまで知らなかった。

 

母はその友達と、仲良く遊んでいたそうだが、

中学へ進学して離れ離れになってしまったそうだ。

 

そんな中、戦争で釜山と済州島だけ北朝鮮支配下

はなかったため避難民がすごい人数、釜山に集まってしまったそうだ。

 

私の母の母は、道で物を売ったりしていたそうだ。

ではお父さんは何をしていたのか?

私の母によると、こっそり日本に帰っていたらしい。
何をしてい方は分からないが日本でお金稼ぎをしていたのかもしれない

との事だ。

 

そして日本から算盤や鉛筆を買ってきていたそうだ。

韓国にはない、いい物を買ってきていた。

 

韓国では、12時になるとサイレンがなって12時以降に、

夜道を歩く人は警察に捕まった。

ja.wikipedia.org

 

当時は、北朝鮮の話も共産主義の話もできなかったら、

外で話をして見つかったら捕まる時代だ。

私の母曰く北朝鮮への悪口だったとしてもダメだったと思うとのこと。
とにかく北朝鮮の「き」の字も言えないくらいだったとのこと。

 

そんなことがあって、私の母も覚えてないようだが戦争が休戦した。

 

私の母の年代の人たちは、

北朝鮮から韓国を守ってくれたアメリカ軍ありがとう」

という考えの人が多く、未だに韓国にはアメリカ支持の高齢者が多いようだ。

だから私の母も

「戦争はもうこりごりだけど国を守る軍隊は必要」

と言っている。

 

日本の反戦平和で護憲の高齢者とは全然考えが違う。

 

さて、母は国籍が「日本」だ。

イスンマン大統領の時に、在韓日本人を理由なくそのまま帰国させる

機会があったが、母方の父の実家が

「(韓国人の母方の母に対して)朝鮮人を連れてくるな!」

と言っていて、家族を連れて行けない状態で
私の母は、「母を置いていくのは嫌だ!」ということで、

母を含めた子供全員が反対したので、日本に行くのを諦めたそうだ。

gobonbonbon0611.hatenablog.com

 

「私の父が拉致された!」

私の父は1933年生まれだ。

朝鮮戦争中の話ではないが、父は小さい頃に北朝鮮に拉致をされた事がある。

 

父は、13歳頃に学校の帰りに北朝鮮の人間に拉致された。

1946年頃の話である。

毎日歩かされて北朝鮮に向かったという。

北朝鮮に着いたら施設に入れられたのだが、そこには沢山の人が

捕まっていたそうだ。

 

父は多くは語らなかったが施設では苦労をしたそうだ。

そして、なんとか生きるか死ぬかで韓国の自宅へ逃げてきたそうだ。

 

拉致された事は、家族には話したが、外には言わなかったというか、

言えなかったらしい。

 

なぜなら、悪いのは北朝鮮なのに、北に行ったと言うだけで

共産主義者」のレッテルを貼られ、逮捕され、最悪は処刑をされてしまうので

怖くて言えなかったそうだ。

 

だから外交官として日本に来た30代、それから20年くらい経ってから

ようやく母に話す事ができたそうだ。

 

日本ではどれだけ安倍政権の批判をしようが逮捕もされなければ、

処刑もされない。

街で「俺は共産主義者だ!」と叫んだところで「街で叫ぶ頭おかしい人」

と思われるだけで逮捕される事はない。

逮捕されるとしても街中で大声を出して迷惑をかけたから通報されて

交番や警察署に連れて行かれるくらいで、

共産主義者」だから逮捕される事はない。